

奈良県南部・吉野の北岡本店が醸す「やたがらす」は、熊野信仰の導きの神である八咫烏を冠した吉野の地酒だ。この特別純米は、精米歩合60%、日本酒度+4.5、酸度1.7という数字どおりのしっかりした辛口で、吉野の山の水を思わせる清冽な飲み口が身上になっている。観光地の名前を背負いながらも、中身は徹底して食事に寄り添う実用酒だ。
栓を開けても香りは穏やかで、吟醸香のような派手さはない。一口含むと、辛口らしい引き締まった飲み口のなかに米の旨みがほどよく乗り、後半は+4.5の日本酒度が効いてキレよく切り上がる。酸度1.7が後味を支えるので、辛口でありながら痩せた印象がなく、旨みと辛さのバランスがとれている。冷やすと輪郭がよりシャープになり、夏場に冷やでも気持ちよく飲める酒質だ。
辛口の特別純米は燗で化けることが多く、この一本も例外ではない。ぬる燗(40℃前後)にすると米の旨みがふくらみ、辛さが角を落としてまろやかになる。寒い時期は燗、暑い時期は冷やと、季節で温度を振り分けられるのが家飲みでは頼もしい。1本で幅広い温度帯を楽しめるコストパフォーマンスの高さがある。
ペアリングは和食の定番が間違いない。白身魚やイカの刺身、塩の焼き鳥、天ぷらといった淡白で塩味の効いた料理に、この辛口がすっと寄り添う。出汁の効いた煮物とも好相性で、酒の旨みが料理の出汁と響き合う。甘い味付けより、素材の味を生かした料理を選んだほうがキレの良さが際立つ。
四合瓶で1,200〜1,500円ほどと、辛口の食中酒としては手に取りやすい価格。突出した個性で売る酒ではないが、毎日の晩酌で料理を引き立てる役割をきっちり果たしてくれる。吉野の名を冠した、飾らない辛口の一本だ。