

東京都あきる野市、秋川渓谷の麓に蔵を構える野崎酒造が醸す定番純米が「喜正(きしょう)」だ。明治17年(1884年)創業、製造石数400石ほどの小さな蔵で、多摩の伏流水を仕込み水に伝統的な手造りを守っている。東京の地酒というと意外に思われるが、奥多摩の名水と丁寧な造りに支えられた実直な食中酒で、編集部としても背景を意識しながら一杯と向き合った。
香りは控えめで、立ち上がりはほとんど無臭に近い。鼻を近づけると炊いた米のような穏やかな含み香がうっすら立つ程度で、華やかな吟醸香を期待する酒ではない。美山錦を精米歩合60%で仕込んだ酒らしく、香りで惹きつけるよりも料理に寄り添う方向に振った設計だと受け取った。透明感のある静かな佇まいが好ましい。
一口含むと、米のやさしい旨みがすっと舌に乗り、日本酒度+2・酸度1.5らしい引き締まったキレが続いて後口は素直に切れる。冷酒(10〜12℃)では旨みが締まって淡麗さが際立ち、常温では米の甘みがゆるく開く。本領を発揮するのはぬる燗(40〜45℃)で、温めると旨みが丸く膨らみ、酸がやわらいで一段とまとまる。精米歩合60%の純米らしい腰の強さがあり、燗にしてもダレない。
合わせる料理は気取らない和の総菜が似合う。焼き魚、里芋やかぼちゃの煮物、おでん、湯豆腐や冷奴といった出汁や塩を効かせた家庭料理と素直に寄り添う。淡麗な吟醸酒が苦手とする少し濃いめの味付けにも負けず、燗にして料理と温度を合わせると相性がさらに上がる。香りの主張が小さいぶん、食材の風味を立てる役回りに徹してくれる。
四合瓶で1,300〜1,600円前後と、毎晩の晩酌に無理なく置ける価格帯。突出した華やかさや希少性を求める酒ではないが、東京に百四十年続く蔵が名水と手造りで磨いてきた食中純米の完成度は高い。一日の終わりにぬる燗で一合、という飲み方が最もよく似合う、王道にして堅実な東京の定番だ。